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3月9日の深夜から3月11日の昼にかけて、駆け足ではありましたが、震災から2年目を迎える東北へ行ってきました。
なぜに。
1つは2年前の6月にボランティアで作業した気仙沼の本吉地区がその後どうなっているかを見たかったこと。
もう1つは、2年前は本吉地区しか見れていないので、それ以外の町の状況をテレビなどのメディアからの画像や情報ではなく、自分の目で現場を見て確認したかったから。
訪れた場所は岩手県の釜石市から大船渡市、陸前高田市、気仙沼市、気仙沼の本吉地区、南三陸町。
南三陸町で一泊し、11日午前は南三陸町をまわりました。
まず一通り見て、僕が思ったこと。
片付けました。更地にしました。で?!
ということ。
本当に、ただとにかく片付けました、という感じです。
ここから、です。そしてここからが本当に大変であろうと思います。
大変だろう、と言うのは簡単ですが、これはあらゆる人の様々な気持ちや思いが、暗い部分も含めて錯綜するという意味で何年も何年もかかっていくだろうと感じます。
そんな中で僕は
復興、復興と言うけれど、復興というものが何なのか分からなくなった
というのが正直なところです。
そして、現地の人何人かが言っていたこと。
まずは
忘れないで欲しい
ということ。
ええ、もちろん忘れませんって。
でも、それは例えば首都圏の人などはあの日、かなりの揺れを経験しているし、余震の回数も多い。
阪神大震災を経験している人もそうでしょう。
でも、それ以外の地域の人は、どうしても距離に比例して意識が薄らいでいくのは致し方ないと思います。だからこそ常にとは言わずとも忘れずにいる事だと思います。
そして“忘れない”もう一つは、あの時に日本人の多くの人が考えた“人のために何かをしたい”っていう気持ちを忘れずにいることだと、感じとりました。
そして、
語り継いで欲しい
とも仰っていました。
あの日、あの瞬間に人のために貢献し、命を賭した人達が多くいた事を。
人間は良くも悪くも忘れていく生き物。
そして5年、10年と経つうちに、あの災害を知らない世代がどんどん増えていきます。
だからこそ、勇敢だった人達の事を語り継いでいきたいと思います。
以下、いくつか写真を。
釜石。
津波で流された物品で、未だ持主の現れないものが、こうしてアルバムに綴じられていました。
大船渡。たまたま「鎮魂愛の鐘」なるものの除幕式をやっていました。
今はBRT化されています。
再度鉄道を作ったとしても採算は取れないということで、二度と鉄道がこの地を走ることはないのでしょうか。
陸前高田。今回、南三陸とともに訪れて衝撃を受けた町の一つ。
なぜかまだ道の駅が取り壊されておらず、鉄骨やコードなどがそのまま。
ちょうど東京も煙霧だったこの日、陸前高田は身の危険を感じるほどの突風が吹き荒れ、オカルトは信じない僕だけど、本当にカメラを向けるとむちゃくちゃな突風が吹き、なかなかシャッターボタンを押せませんでした。2年を経て“降りて来て”るんじゃないかと感じました。
この道の駅の前には追悼施設が建てられています。
僕もお祈りさせていただきました。
これは野球場。
周囲が全て海になっていますが、もちろんあの日までは行けた場所。
震災で地形が変わってしまい、地盤も沈下して、こうして道路と海が近くてほぼ水平という場所がとても多く見られました。
気仙沼。
これも震災の象徴である巨大船はまだそのまま。
多くの花が手向けられていました。
周りは商店街だったらしいのですが、全く面影はなし。
気仙沼の復興商店街。
釜石にも、南三陸にもありました。商店の皆さんは、こうしたプレハブの仮設商店街で営業を続けてらっしゃいます。
次は、僕が2年前に行った気仙沼の本吉地区。
参考までに、下の写真が2年前にほぼ同じ場所を写したもの。
瓦礫の山でした。
遠く、線路の高架上に家が乗っかってしまっているのが分かります。
南三陸で一泊し、明けた3月11日朝の南三陸町防災庁舎跡。
ここもこの震災の象徴となる場所の一つ。
この2階で、結婚式を控えた24歳の遠藤未希さんが最期まで避難を呼びかけ続けました。
遠藤さんの声のお陰で高台へ逃げ、助かった人多数。
遠藤さんは震災から43日後に遺体となって見つかりました。
そして、今回南三陸の語り部さんの話を聞いて不明を恥じたのは、遠藤さんの傍らで付き添っていた人がもう1人いたこと。
三浦毅さん。この方は今もって行方不明だそうです。
そして、もう一つ語り部さんのお話によって知ったのが、南三陸の特別養護老人ホーム「慈恵園」での出来事。
標高15mの高台にあるこの場所にも津波は押し寄せたのですが、第一波が去ったあと、さらにその20m高台上にある志津川高校の生徒たちが介護士さんたちと共に、身を呈してこのホームの人たちを助けに行ったこと。
第二波が来るのが分かっていながら、救出に向かった生徒たちの勇ましさ。
残念ながら施設にいた計67人のうち46人が死亡、2人が行方不明、職員も1人が犠牲になったものの、彼らの力で28人のお年寄りが助け出されました。
通常2〜3人で介護する要介護度4以上の人達がいた施設だけに、第一波の後で、これだけの数を助け出す事が出来ただけでも奇跡です。
ただ、残念ながらそのうち8人は夜の寒さで亡くなったそうです。
2年前と同じではないだろうけれど、僕も夜の寒さをこの話を聞く前日の夜に味わいました。
防寒をして元気であっても、寒い東北の冬。あの日、身一つで電気もなく夜を越えるのは想像を絶することだと身をもって知りました。
昨2012年12月にそこそこ大きな余震があり、津波注意報が出ました。
その時の津波の高さの予測は1m。
語り部さんのFacebookやTwitterには「1mだったら大したことないですよね。」というコメントがあったそうです。
語り部さんは言います。
1m。
自分が1mの深さの水が入ったプールに入ったと思って下さい。
1mで、波がなくても人間は自由に身動きが取れません。
その水が、時速100km以上で、船や車やガラスやあらゆるものを巻き込みながら、自分に当たってくる。。。抵抗などできません。
津波に安全なものなどないのです。
津波の注意報が出たら、身一つで高い所へ逃げる。
災害で死なないで下さい。
と。
僕が行った被災地は、全体からすればまだまだホンの一部。
「被災地」とつい一緒くたにされてしまうけれど、それぞれの町で被害の様相は全く異なります。
そういう微妙な差異とか全体の空気感なんかは行かないと絶対に分からないものだと改めて思いました。
募金も勿論いいとは思うけれど、現場に行き、空気を感じ、そして現地で少しでもいいからモノを買ったり食事をしたりすること。それが直接的に現地の支えになるんではないかと思いました。
実際に、南三陸の語り部さんも「来て下さることが嬉しい。そして、そういった形で側面から支えて欲しい」と仰っていました。
また、必ず、現地へ行きたいと思います。
ほんの些細でも、被災地で現地のモノを買ったり、食べ物を食べるために。
そして、命賭けて人に貢献した生き方をして亡くなっていった素晴らしい日本人を、自分の中で忘れないために。
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