このブログでは、私のライフワークである旅、滝めぐり、ラーメン食べ歩き、食レポート、温泉/旅館/ホテルなどについて、徒然に綴っています。→ [ 詳細 ]
長野県昼神温泉。
下伊那郡の西部、阿智村にある。
阿智村の清流を挟むように旅館が点在する昼神温泉郷は、大温泉街があるわけではない。
田舎の風情が薫る場所である。
その中で22時間の旅館滞在をいかに楽しむか。
ここがポイントになる。
もちろん川縁を歩いたり、朝市を楽しんだり。。。といった外出してのイベントもあるにはあるのだが、
基本は旅館内でゆったりし、田舎の風情を満喫するのがポイントの温泉地/温泉旅館だ。
この宿は一言で言えば「サプライズな宿」。
とかく滞在中、宿の中で様々なサプライズが待ち受けている。
建物の中の数々の仕掛け、部屋、料理。。。一つ一つはちょっとしたことだったりするのだが、
好奇心旺盛な者には「次は何が?」と思わせてくれる。
まずは豪壮な門から入り、玄関に足を踏み入れると、眼前に迫る能舞台「紫宸殿」に圧倒されるだろう。
この能舞台では毎夜、宴が催される。
部屋は、大きく分ければ4タイプだが全19室すべてが違う造り。
どの部屋にも個性があり、遊び心がある。
例えば外山(とび)タイプ「賽の槌」の部屋。
一歩部屋に入ると、一般的な旅館の和室のしつらえなのであるが、普通なら窓際にちょこっとだけある広縁が奥までずずずぃ〜と延び、さらにその奥に「男の隠れ家」と称される「ほこら」のような書斎があるのだ。
書斎両側の棚に飾られたモノはなかなかマニアックだったりして遊び心満載。
また、プラモデルも置いてある。
このプラモデル、「22時間をいかに楽しんでいただくか」の中から出てきたアイデアで、売店でも売られているし、工具も貸してくれる。
そして制作途中であっても預かってもらえ、次回の滞在時に続きが作れるという案配である。
真空管アンプのオーディオがあったり、ギターが置いてある部屋もあったり、
シアタールームのある部屋もあったり、クラシックカーが鎮座していたり。。。
十九部屋十九様の彩りだ。
(いろいろ画像を載せてもいいが、何が部屋にあるかは行った時のお楽しみのために掲載致しませぬ)
料理もアイデアの数々が散りばめられている。
夕食時、まずは書道家 中塚翠濤氏のお品書きを見て目を楽しませつつ宴が始まる。
「いちじくの生ハム巻き」。
知る人ぞ知る、メロンに変わる生ハムの相棒がいちじくである。
「いちじくと生ハム??合うのか??」なんて思ったら料理長の思うツボだ!
期待感を微妙に下げさせることで、美味かった時のサプライズが増すのだ。
「名古屋コーチンの茶碗蒸し」。
もはやこれは極上のスイーツか。
この茶碗蒸しには具が何も入っていない。
卵そのものだけの味。
上からスプーンですくおうとすると、表面に透明な卵白の膜が張っており、それがスプーンにくっついてあんかけの如く引っ張られる。
しっかりと清廉に育てあげられたものしかない味である。
「信州牛の塩竈焼き」。
塩竈焼き、普通は魚でやる。
いしだでは信州牛でやる。
料理長自らが取り分けてくれる逸品は、山葵を付けて食べると上質な塩加減、肉の甘みと重厚感、そして山葵の辛味と風味が合わさって、どこか遠くへ連れて行ってくれる。
朝食も他にはないアイデア満載で「短歌膳」「俳句膳」そして洋食が選べる。
地元産の素材を用いた料理やデザートなどを31の小皿に入れ、供されるのが短歌膳。
小さな皿を17に減らしてしっかりと焼魚や煮物などを食べたい人向けに施された俳句膳。
もはや朝食の時点で一日10品目の栄養学的目標は達成されてしまうのである。
これらに使われる小さな白皿はお神酒皿のようだ。
そうだ、ここは昼「神」なのだ。
他にも仕掛けはいっぱいで、宿のシアタールームは是非利用してみてほしい。
まさか、と思う場所にその部屋はあるだろう。
露天風呂は、いかにも普通を装っているが、先代が旧南信濃村から運んだという岩風呂の湯は柔らかく、その岩風呂にも「ほこら」のようになっている部分があって、そこに入れば自分だけの空間を味わえる特殊な造り。
瞑想の一つでもしてみたいものだ。
お風呂の出入り口の所には、肺魚がお出迎え。
4億年前から生息すると言われる古代魚で、えてしてこういう生物は動かないのが通例だがこの子はよく動き、愛想を振りまく。
この宿にはもう一匹珍しい生物がいるのだが、それは是非ご自分で探して頂きたい。
宿としてのイベントも多彩で毎年9月には地元の栗矢神社で「栗矢の無礼講」を催し、
毎晩演目を変えて奉納上演、評判を呼んでいる。
2009年早春からは、能舞台「紫宸殿」に飾り雛、吊るし雛合わせて2000体の雛人形を飾るそうだ。
華やかにして荘厳になるに違いない。
恐らく筆者もまだまだ知らないサプライズがこの宿には随所に隠されているのだろう。
もう一度味わいたい、他の部屋やメニューも味わいたい、違う季節にまた来たいと思わせる要素を多分に持った宿なのである。
これだけ攻めの姿勢を持った宿なので賛否両論はあろう。
しかしこの宿における否とは、宿のスペックそのものに対するものではなく、感覚や価値観の違いからくる否なのであって、まさに文句を言われているうちが現役!を地でいっている宿なのである。
豪壮で優雅で荘厳で、完全なる日本旅館でありながらそこいらの純和風旅館とは一風違う演出で、攻めの姿勢を崩さず客を楽しませる旅館。
その一風の違いは、昼神の“神の風”に他ならない。
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