幼少の頃より音楽を始めとしたあらゆるエンターテインメントに触れる機会を持つ。学生時代はフュージョン系サークルにもプレイヤーとして所属。→ [ 詳細 ]
くるりの名曲「ばらの花」
この曲はもちろんメロも名曲なのだが、その歌詞も名曲(迷曲)たらしめている由縁だ。
この歌詞の意味が分からない、ということで「ばらの花 歌詞 意味」なんかでググると確かにいくつも検索がヒットする。
みんながそれぞれの解釈で「ばらの花」を味わっている。
で、ご他聞に漏れず僕もこの歌詞の意味はずっと今ひとつ分からなかった。
僕はくるりのファンではないので、
くるりファンにとって/この曲を研究してきた人にとっては何を今更感があるかもしれないが、
先日ある出来事がきっかけで僕は「この曲ってこういう解釈もできるんじゃないか」ということを思いついたのでここに記しておきたいと思う。
あらためてまずは「ばらの花」を復習しておく。
歌詞を載せると著作権上のアレがややこしいので、ここを参照してください。
大体の感覚からすると、恋人同士の関係を歌ったものと解釈できるけど、矛盾する/分からない箇所がいくつもある。
雨降りの朝で君に会えない⇒なのにホッとしている
しかも雨降りの朝なのに旅に出ようと言っている。
「安心なぼくら」の意味 「安心」の指すところとは
君が見てるから暗がりを走るけど、君もぼくもいない
最終バス乗り過ごしてもう君に会えない⇒なんで?「最終バス」の指すものとは
あんなに近づいたのに遠くなっていくの意味するところは
だけどこんなに胸が痛む⇒朝は会えなくてホッとしていたのに、胸が痛いとは?
ジンジャーエールの謎
と、まぁ書いてみると恋人同士の事ではなく、
片思いの相手を歌ったのか?とも考えられなくもないけど、
だったら「僕らお互い弱虫すぎて」とか矛盾する箇所も出てくる。
とにかく謎だし、たくさんの解釈が出来るからこその名曲なんでしょうが、僕のあらたな解釈はというと。。。
ちょっとしたエピソードがきっかけなのでした。
実は先日仕事場に行った時に、ある人が休んでらっしゃった。
聞けば、その日の朝お母さまが倒れられて、急ぎ故郷に帰られたという(故郷は大分)。
それを聞いてから1時間くらい経った時に電話がなり、僕が取った。
するとその人だった。その人は電話口で一言
「間に合いませんでした。。。。」
憔悴し切った声で言う彼に、必要以上の言葉も見つからず、少しだけ話したあと電話を切った。
彼の気持ちをいろいろと考えつつ帰路につき、
その時のipodは全曲シャッフルにしていたのであるが、
たまたま流れてきたのが「ばらの花」であった。
そこでふと思ったわけである。
この歌詞って「親子の関係」、もっと細かく言えば「母と息子の関係」にも言えることなんではないか、と。
「親がいなくなり、もう自立した。安心だ、どんどん旅に出よう」とも取れるし、
暗がりを走っている時の「君がみてる」が表す「君」とは親とも取れる、でも、もうこの世にはいないと。
「あんなに近づいたのに遠く離れていく」のも、自分と親との距離とも言える。
親父を抜かそうとして、抜けきれなかった自分、みたいな。
そして「朝(子供の頃)飲んだ気が抜けたジンジャーエール」と
「夜(大人になってから)飲むジンジャーエール」の味の違い。こんな味だったけな?と。
もちろん、親子の関係だったとしても、それよって生じる歌詞の矛盾も出てくるけれど。
こうして一つの歌詞をあ〜だこ〜だと議論することが、
ともすると岸田繁氏の思惑通りなのかもしれないが、
この行間ありまくりの多角的な歌詞こそが、
聴く人のシチュエーションによって表情が変わる「ばらの花」の真髄と言える。
矢野顕子さんが好んでこの曲を歌う。
震災直後のソロライブの弾き語りでこの曲を歌われた時には泣けた。
「安心なぼくらは 旅に出ようぜ 思いっきり笑ったり泣いたりしようぜ」
もうこの時には、震災から生き残った我々に向けて、の歌になっていた。
まだまだこの曲はいろいろな解釈ができそうである。
矢野顕子&今は亡きレイ・ハラカミによるアレンジがまた素晴らしい
ばらの花 -Live version-
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