ある晴れた春の日

私は三年前。

日記をつけていた事があった。

たまに思い立ったように日記をつける。

三年前の春の日。私が何を残したかったのか。

今の私にはよくわかる。

以下はその三年前の日記だ。

 

 

 

 

昨日。 休みだったので、じいちゃんと、ばあちゃんのところに顔を出してきた。

もう二人とも80歳を超えている。

じいちゃんは、事情があって、戦前、戦中、戦後、ともに少しやんちゃに生きてきた。

家庭の事情ってやつだ。

 

何かの試験に受かって船員になったけれど、上司をぶん殴ってクビになってしまい、それが理由で親に勘当されてどうにもならなくなった。

その後の苦労した話が始まると、どこまで本当かわからないような壮絶な話がいつも何時間にも及ぶ。

 

けれど、人よりも苦労した分。筋をきちっと通す男気のある人だ。

いろいろあって最後は工場で働いていた。

そんなじいちゃんに付いてきたばあちゃんはすごいと思う。

80歳を超えて、ばあちゃんは少し痴呆気味。

少女にもどったみたいなきらきらした目で微笑む。

俺がいくと、自分たちはボロボロの家に住んでいて、あまり豊かではないのに

おこづかいをくれたりする。

いつまでも孫なんだろう。

なんだか、断ると寂しい顔をするのでもらうことにしている。

少ない年金生活の中、俺にくれる一万円….。

自分が身につけているる高価な時計やスーツ、自慢の車までもなんだか恥ずかしくなる。

俺はなんて、俗物でつまらないやつなんだろうって。。

なんだか、いい生活をすればするほど、大切な気持ちを忘れていくような気がする。

ばあちゃんちにいくと、昔ながらの商店街でいつもの鳥の足を買って来てくれる。

子供の頃からの俺の好物。

今でも大好きだ。 醤油で味がついているだけのローストチキン。

どんな高級レストランもかなわない鳥の足と、ばあちゃんの炊き込みご飯 。

俺は少しだけ大切なものをとりもどした。

長生きしてくれよな…..。

帰り際。俺が子供の頃よりも無垢な笑顔で手を振るばあちゃんをみて、これで最後になるんじゃないか

なんて不安になりながら、俺も子供の頃の笑顔で手を振った。

 

 

 

去年の暮れ。

祖父は亡くなった。

 

死のうは一定。

 

人生には必ず終わりがくるのだ。

どんな人生でも許されている限り、それは必然。

人は自分に与えられた運命を全力で生きるしかない。

 

かつて、ショーペンハウェルが言ったように、運命が札を切り私たちが勝負するのだ。

この瞬間にすべてを賭けて。

そんな気持ちで生きていこうと思う。

 

ある晴れた春の日に誓って。

 

 

 

 

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