誰もが初めての時代を生きている。
そして、現代は有史以来もっともマシな時代だ。
医療技術も日進月歩。
生活はどんどん便利になっていく。
いろんな場所に自分の身を置いて分かった事がある。
それは。
ステイタスのある職業の友人も、
外国の友人も、
中卒の友人も、
みんなそれなりにハードな人生を送っているということだ。
答えは外に向かって探してもどこにもない。
せいぜい。自分より下の誰かを見つけて自分はまだマシだと思う事くらいしかできない。
答えは自分の中にある事に気づいた。
大きい事を言っていて、小さい。
若ければ大器晩成と嘯いていれば、それなりに見所のある奴だと評価してくれる人もいるだろう。
私くらいの年齢になれば、もうこれは覚悟するしかない。
人にけなされても仕方がないと覚悟するのだ。
そういうハンディを追わなければならない。
あとは、自分の精神の持ちようだ。
とっぽい話ではななく。
静かに、死を意識して生きられるか。
礼儀正しく。
人にやさしく。
そして自分の決めた事をコツコツと続けられるか。
人の命には終わりがある。
その時を迎える時は誰にでもくる。
人は死ぬための準備をするために生きているのかもしれない。
人が死ぬ事は太古の昔から決まっていたことだ。
結局ゴールは決まっている。
そのときをどう迎えるのか。
そういう事を考えておく事は、生きることを考える事につながると思う。
クラッシックな本。
例えばソクラテスでもいいし、新渡戸稲造でもいい。
人が生きるということに関しては、先人達が色々と残してくれている。
クラッシックに学べば、今を生きるヒントはいくらでもあると思う。
やれフェイスブックがどうだ、なんとかというアプリがどうだというのは、
本質的な情報ではないし、そういうことにこだわりをもって使っている時点でデジタルネイティブではない。
これから、どう生きようかを考えると私の思考は十代の頃に戻ってしまうけれど、
人はどう生きようかちゃんと考えて生きられるおそらく唯一の生き物。
私は悩み、覚悟をきめながら、また悩み。それでも死ぬまで誇り高く生きていく努力を続けようと思う。
『武士道とは死ぬ事とみつけたり』は解釈のしかたによっては、
現代においても意外と本質をついた言葉だと思う。
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