大切な事

生きる為に必要な実体のないもの

そういうものの大切さをこの半年の間

とても深く感じている。

たとえば、

知識ではなく叡智

計算ではない信念

 

単純な、合理的思考や知識

ステレオタイプの型破りとか

 

ステレオタイプの方法論

 

よく聞いた、XXXの20の方法とか

ちょっとした裏技とか

 

この世の中

iPhoneの上をちょっと指でなぞれば

得られてしまう知識や情報などは

もういまさら、当たり前だし

サラリーマン管理職がよく口にする

常識や数字からの統計学や確率論も

もう普通過ぎて、はいはいと言う感じで

 

 

そんなのはもう前提問題になっている。

 

蛇足であるが、

それすら何も考えずに、公立の小学校から中学校にあがるときみたいな

当たり前の惰性をただただ、何年も何の疑いも無く生きている人もいる。

 

これはもう論外

 

細かい現実は変われど、人間的な器の成長は20歳からなにも進化していない。

 

こういう人は、これから淘汰されて大変なことになるだろう。

 

話がそれたけれども。

 

何がいいたいか。

つまり、理屈じゃない信念とか

たとえば愛とか

そういう『精神的支柱』というものがある生き方が

実は求められてるきがするのである。

 

ある人には武士道かもしれないし

 

ある人には宗教かもしれないし

 

とっつあん世代の矢沢永吉かもしれない。

 

お金や、経済性や合理性をこえるなにかをもつ。

 

どう生きるか。

 

そういうものがないと実は人は”よく”生きられないのかもしれないと思うのだ。

 

決してカリスマが必要だと言う意味ではない。

 

理屈じゃなく自分が好きなもの

 

これだけゆずれないと思うもの。

思い。

 

信念。

 

こだわり。

 

ありかた。

 

そのことのためなら、いつでも死んでもいいというような

 

そういう覚悟をもっているほうが

 

日々、よく生きられる。

 

ただ単純にそう思うのである。

 

ひょっとすると幼稚園でならうことかもしれない。

 

言っている事が支離滅裂と感じられるかもしれないけれど、

 

つまり

 

大切なもの

大切な人のためにすべてをかけて生きる覚悟があるということは

 

とてもしあわせな事で、

 

もしそれを恋に例えるならば

たとえ失恋であっても

 

そういうもの。

つまり生きる上での目的たる『もの』たりうるのである。

 

それは、その人の心のあり方として

 

相手に何も求めない

 

それでも、そのことが自分がしあわせだと思えれば、そこにはエゴもない

 

本物の信念や気持ちがあって

 

そういう気持ちが生きる上で得られたとしたのなら、

それはとてもとてもしあわせなことだと思うし、

 

その気持ちこそが人生の目的だと思うのである。

 

 

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