近頃。
いろんな出来事があった。
詳細はおいておいて
いろいろなことを確信している。
重苦しい表現を使ってしまうと。
『生きる』
生きると言う事はとてもシンプルなことだと思う。
熱いものを熱いと感じるのは体を防御する為にか神経が反応しているからである。
そのことは誰もが分かるだろう。
では、学校生活はどうか?
職場はどうか?
あるいは家庭はどうか?
そういう場所で辛いと思う原因は、
その場所にいることを心が拒否しているからだ。
つまりその生活が好きではない。
苦痛。
自分では気づかない苦痛。
心の叫びを無視して取り繕ってもいい結果に結びつくわけがないのである。
好きではないことを無理して
しあわせだと、自分を取り繕う時代はもう終わっているのだ。
そのことに気づかなければならない。
少し前の時代なら。
我慢が、年功序列や終身雇用があったから安定に結びついていただろう。
じっと堪えれば、エスカレーターは上がっていく。
そういう時代の常識が今でも少しだけ残っているだけである。
今、我々は下りのエスカレーターを駆け上がるような社会を生きている。
少し飛躍するけれど。
自分の気持ちをもって走りきらなければならない。
じっとしているだけなら負け犬である。
事実はとても、とても
『シンプル』
今いる場所が、辛いのは。
『好きではないことをしている。』
『本来いるべきではない場所にいる』
あるいは
『好きではない人と一緒にいるからである。』
フィットしていないのである。
真実はシンプル。
人の心はいつもでも本当はシンプルである。
自分にだけは、嘘をつけないから。
しあわせに必要なのは。
好きほうを選ぶ。
ただそれだけのことなのに。
(選べる自由のある幸せな時代に生きていることに感謝するべきである。)
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