唐突であるけれど、自分の無知を知る事はとても大切である。
そのことを自分自身、身にしみている。
1ヵ月くらい前、15年ぶりにマックスウェーバーを読んだ。
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
埃まみれになっていて、それでも15年間捨てられなかった本。
3回の引っ越しを経て、今まだ手元にある数少ない本である。
こんなもの、その気になれば古本屋で100円で買えるというのに。
久しぶりにこの本を読んで私は目から鱗が落ちた。
内容いかんを言っているのではない。
当時法学部の学生で、ひどく憲法や刑法などの公法系が好きだった私は、
ウェーバーだ、ルソーだミルだ、ホッブスだモンテスキューだと、粋がって読みあさっていた。
どれもわかったような、わからないような。
本文から理解したのか、解説本などから理解したのか分からないような有様だった。
古典ともいうべき、古い書物であるし、ドイツ語を訳したものだし、
そういう意味で、『文章』が難解だから理解できないと思い込む事にしていたのだ。
自分が馬鹿で理解できないと思いたくなかったのだろう。
先日、これを読み進めるうちにこみ上げる感情。
少なくとも、15年前よりも理解できるのだ。
そして私は気づいた。
文章が分かりにくいと思っていたけれど、
自分にそれを理解する能力がなかったのだということを。
そして、15年の間にろくに勉強らしい勉強をしてこなかった私自身が、
少しでも成長している事をとてもうれしく思った。
現在、私は新しいプロジェクトに取り組んでいる。
これまで私は、小手先のことばかり考えて自分自身の能力を高める努力を
ないがしろにしていた側面があるのではないかと、今とても反省している。
出発点は、自分の『無知を知る』ところから始めなければならない。
その上で、人生の残された時間を思いっきり楽しんでやろうと思っている。
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